英語は手段に過ぎない?
語学は手段に過ぎない、とよく言われます。
伝える内容が大事なのだと。
「英語なんかやってないで、『なかみ』を育てなさい」という感じで、早期英語教育への批判として言われることもあります。
まあ、そうなのかもしれません。
でも、まあ、多様な情報を受け取れるということにも意義がありますよね。
海外ニュースを見て、翻訳物を読んで、一応世界のことをひと通り理解したつもりになっていても、日本語しか知らないで世界を見るのは、カエルが井戸に開いた穴ひとつから世界を見ているようなものだと思うのです。
英語がわかれば、井戸にもう一つ、世界を見るための穴が開くと思います。
確かに、世の中には多くの翻訳物があり、なかに、ため息が出るくらい美しい翻訳があります。
しかし、それは本物とは違います。
本物を楽しむのと、翻訳物を楽しむのは、似ているけれど違う2通りの楽しみです。
本物と翻訳物を両方楽しむのは、2つのことばを知っている人だけに許される最高の贅沢ではないでしょうか。
また、翻訳されているものは、表現全体から見ればごく一部です。
言葉がわかれば、より多様な意見や文化に触れることができます。英語で伝えるべき「なかみ」も育つかもしれません。
人工知能(AI)が発達して、英語を学ぶ必要はなくなる?
完全に手段としての英会話は、AIによって不要になるのかもしれません。
でも、人間は、車や電車が発達した現代でも、走ること、速く走ることに意義を見出します。
写真技術が発達しているのに、絵を描きます。
電子機器でいつでも一流の音楽を聴くことができるようになったのに、生の演奏を喜び、自分で演奏したがります。
語学もそんな感じで、その価値がなくなることはないように思います。